2012年03月07日

3月3日、4日のこと

3/3
今日は、長男の合奏大会。どういう主旨のどういう団体の音楽フェスティバルなのかは知らない。ネットで情報がないので。この大会の演奏練習で泣き始めて、長男は登園拒否になった。原因はわからない。演奏自体は好きなようだ。今日も最後まで演奏を終えた。

二人の保育士が交代で指揮をした。その指揮ぶりを見ると、指揮でいっぱいで余裕がない。園児一人一人に目を向けていない。これは、きつい。演奏は上手だが、それに気を取られ過ぎだ。

兄の演奏を妹と弟は見に行った。二人ともインフルあけできつかったと思うが、長男が見てほしいと言うので全員で見た。残念ながら、座った位置が悪くて顔が見えなかった。耳をそばだてて長男の音を追った。本当によくがんばる子だ。

夕飯には帰宅。作る暇はなく、ちらし寿司を買う。それ以外はいくつか料理する。

3/4
今日のサッカー教室。コーチが声を出さないから、みんなダラダラ。団子になってドリブルもない。リスタートも遅いから、みんな走らない。他の子より速く動き出さないとボールに触れないよ。みんながそういう意識で動かないと、爽快なプレーはできない。

他の子より後ろにいて、他の子と同じ速さで動いていたらボールに触れないよ。どんどん触りに行って競いあえば、お互いにうまくなる。

自分をしっかり持つ。そういう言葉があるけど、しっかりした立派な考えをすることだと勘違いしてる。揺るがないこととかんちがいしたり。自分の心と言動をしっかり把握することだよ。気持ちと言葉、行動が一致しないのは、何かを勘違いしてる。

わが子の保育士もそうなんだが、君が代の斉唱で起立しない教師も、何か見失っているように思う。それぞれの仕事は何かと。生徒あるいは園児を見つめることが職業の基本にあることを忘れている。座っていては生徒の顔も見えまい。指揮するのに精一杯では、園児の演奏している顔も見えまい。
結局、己の頭の中の世界に生きていて、自分自身すら見えていないのではないか?何か一つのことだけで頭が一杯になっている。いろんな状況の中で、人は様々に行動し言葉を発する。己の頭の中で考えるには、あまりにも変化は大きいのだ。観察し、次を予測するだけでもオーバーフローするはずなのだ。

誰が、何をしているか。そして、自分は何を言い、何を行動するか。それ位のことしかできない状況というのがある。それをカバーするために事前の準備が必要になる。学校の授業はそういう準備なのだということを忘れているんじゃないか。学習は学習のためにあるのではない。卒業式もそう。

頭でっかちで、過去に縛られている頭で考えていることは、滑稽で陳腐になっていくのだ。人が何をしようとしているか、人が何を言っているのか、そこが教育の基本だろう。無理やり自分の思想を押し込めるものではないはず。こんな愚かな教師は少ないと思うが。わが子もアンラッキーだった。

音楽演奏会でも、主催者は「他の子たちの演奏に耳を傾け、あわせることが大事」と言っていたのだ。だが、わが子の保育士は正確なリズムをとることだけに汲々とする指揮をしていた。子供たちが他の子の演奏に耳を傾けているようには見えなかった。ただ上手に演奏しようとしていた。

親もまた、同じ。反省しながら、まずわが子を見る。何を話し、何をしているかを見る。それと同じく、自分が何を話し、何をしているのかを知る。始終していれば疲れること。ある程度は手を抜きながら楽しくやっていこう。ある一点だけを見つめるのではなく、ぼんやりと全体を見ていこう
posted by いしのひげ at 12:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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