2010年04月27日

無門関と自由

昨日から「無門関」という禅の公案集を読んでいる。

そうこうすると、自由とはなんだろうと考えた。

自由。

大人は生活や行動、判断には経験や知識に囚われてしまう。なぜ、今これをこのようにするかと問われたなら、これまでこうしてきたからと答えることが多いのではないか。過去の事例を見いだした、その時点で思考は停止する。大人は経験や知識、偏見に束縛されがちだ。なぜ、いつまで何のためにどのように、これをするか、までは考えなかったりもする。

子供は、ほとんどがこうしたいからと答えるのではないか。なぜ、今これをするか、いつまでするか、は分からない。初めから思考は停止している。興味があればずっとしているし、興味が無くなればほっぽりだす。経験や知識が無い代わりに子供は自由だとも言える。が、自身の興味に縛られるとも言える。

生きるのに汲々としている、つまらない生き方をしている、大人はイヤだという若者がいる。私もそうだった。あれこれと己が自分自身で縛り付けて、不自由に生きているように見えるのだ。屁理屈をこねてはやりたいことができないと愚痴る姿は、子供からは不様に見えるのだろう。

無門関にある「高い木に登り、口で枝をくわえてぶら下がった僧に、質問をする」話に似ている。答えなければ面子が立たず、答えれば木から落ちる。大人は、そんな生き方をしている気がする。

自由に生きるなどと、本やらテレビやらで紹介されていたりするが、どうすれば自由に至るのかについては語ることは少ない気がする。
心の自由は本当によいことなのか、ということは尚更語られることがない。自由であっても、苦しみや悲しみなどから逃れられるわけではないし、自由を求めることで苦しむことにもなりかねない。

はてさて。
posted by いしのひげ at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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