2009年12月27日

孤高の人 新田次郎

加藤文太郎なる実在の人物を題材にしたお話。昭和初期に活動した登山家だ。

私がこの小説を読み終えた頃に、片山右京が富士山で遭難したニュースに接した。加藤文太郎も槍ヶ岳の北鎌尾根で遭難死するのだ。冬の山の気候は厳しい。死因は凍死で共通する。

沢木耕太郎の「凍」で描かれた山野井夫妻もギャチュンカン北壁で遭難した。一命は取り留めたが、手足の凍傷で指を失う。山野井は生きる意志があれば、どんなに寒くとも死なないというようなことを語った。

加藤文太郎は、体力を温存し食料さえあれば、冬山で眠っても死なないと語った。

人間の強さを、彼らは実感したのだろう。逆に言えば、一瞬の油断で冬山は人の命を奪えるのだ。生き延びる意志と智恵や準備があれば、ぎりぎりの死線を切り抜けられる。それが人間の強さなのかもしれない。

加藤は日頃から、リュックに石を詰めて仕事場に徒歩で通ったり、庭でビバークの練習のため野宿する。果てには断食して野宿したりもする。
まあ、なんてストイックな男。

修行僧。ボクサー。

私もこれほどではないが、スイミングクラブに通っていた頃は同じような気持ちを持っていた。
幼い頃の話だ。二時間ひたすら全力で泳ぎ続け、帰宅すると玄関で眠るような日々。手を抜き楽をするためではなく、全力を出しきるための工夫をしていた。速く泳ぐためには、無駄に力を使うのは逆効果で、遅くなる。水を敵に回さず、味方につける方法を学び、工夫した。

全力を出しきる。これが楽しい。

余力を残さず、かといって力任せではない。

登山にも通じるものを感じる。雑念を持たない時間は楽しく、あっと言う間に過ぎ去る。もっと楽しみたいて感じた時は、魔力に魅せられているのだろう。

さらに

山は空が広い。そして、空が近い。知っているつもりの空とは違う。

この作品では、遭難の原因をパートナーの暴走としている。脚色に過ぎた感がある。そんな未熟な登山家ならば、ずっと早く遭難しただろう。全力を尽くしても不運が重なれば、遭難することは考えうる。

また、個人とパーティーはやはり違うものだ。団体行動に熟練しなければ、集団心理にとらわれるのが人というものか、と思う。
posted by いしのひげ at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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